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宮城県ノルディックの旅(白石編)

最終日は、白石市にある白石城址と武家屋敷を探索しました。
当初は、完全な観光モードの気持ちで向かっていたのですが、城下周辺に近づくにつれ整備された水路・街並みが見え始め、車で素通りするのがとっても惜しいと感じ、ノルディック&キックボード&ヒーリーズの親子3人組で歩き始めました。
このところ、私が近場の移動はNWしかしないことを知っている子供達は、有無を言わず言わさず(あきらめ)・暗黙の了解っていう感じでついてきます(笑)。

武家屋敷の駐車場管理室の壁には、JR東日本の「大人の休日倶楽部」の古びたポスターが貼ってあり、小雪舞う中、吉永小百合さんが橋を渡るシーンが写しだされていました。
せっかくの機会でしたので、私達も同じ角度から1枚パシャリ。

そうこうしていると、あら!?粉雪が降ってきたではありませんか。
朝から冷え込む予報ではありましたが、4月を目前にして雪を見るなんてやっぱり東北地方は寒いんですね。

■いつまでこうやって一緒に歩いてくれるのでしょうかね---。
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■まさに上のポスターのように粉雪が降り始めました。びっくりしました。
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■さて、ゆっくり歩き始めて10分程度で白石城の裏手方向から天守閣の三階櫓と大手門二ノ門
 が見えてきました。
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ここで歴史的な背景を振り返っていきましょう。
白石城は1500年代後半に蒲生氏家臣によって築城されました。
その後戦国時代のめまぐるしい勢力争いの過程で上杉氏、関ケ原合戦(1600年)の直前には伊達正宗が白石城を攻略し、その家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、明治維新に至る260余年間片倉氏の居城となりました。
初代片倉小十郎影綱といえば、その智将ぶりから「国家の大器」として豊臣秀吉や徳川家康からも高い評価を得ていた伊達家随一の名参謀で、「小十郎」の名は当主の通称で、天下の大名(たいめい)となりました。
そして、1602年に白石城1万3千石を拝領しています。

今回、私が一番驚いたことは、戦国大名のなかでも最強と言われ、大阪夏の陣で徳川家康を後一歩のところまで追いつめた真田幸村(信繁)についてです。
幸村は大阪城の落城前夜に自らの死を覚悟し、戦場でわたりあった敵である二代片倉小十郎重長を知勇兼備の将と見込んで、子女阿梅(おうめ)の後事を託しました。
また、幸村の次男守信(幼名は大八)も白石城二の丸で密やかに養育されたといった説もあります。
このように徳川にとって朝敵であった豊臣方家臣(真田)の子孫を、片倉家また主君であった伊達家も承知の上だったのでしょうが、なぜリスクを犯すことまでして白石に迎えたのでしょうか。
当然そんなことが徳川勢に知れたらただ事では済まされなかったでしょうし、実際これ以降に幕府方からの詮索も入ったようです。

戦場で真田幸村と肌を合わせ闘いそこから生まれた畏敬の念、そして子を持つ同じ親として無念にも子を託す以外の道が閉ざされた者から嘆願されたことが心に響き、儒教で言うところの「義の心」が湧き出てきたからでしょうか。
どちらにしても、このような背景があって幸村の次男守信は片倉を名乗った家臣となり後に伊達藩士に取り立てられ、その息子辰信の代(1712年)になって公に真田姓を名乗ることが許され、守信の子孫は【仙台真田家】として今なお続いているというのです。

大阪夏の陣で潰えたと思った真田家は宮城の地で脈々と生き続けていたのですね---っ。
この壮大なロマンというか事実に感動しました。

ps.その後の阿梅(おうめ)ですが、二代片倉小十郎重長の後室となっています。
   真田幸村は天国で片倉小十郎重長に逢い、お礼を伝えることが出来たのでしょうか。

■ここからの写真は白石名物のうーめんです(そうめんのあったかバージョン)。
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by fftmk759 | 2013-03-31 18:17 | 地方巡礼

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